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井伊家、苦しい時代を経て徳川随一の家となる。

井伊直虎という名前を初めて聞いたのはいつだったでしょうか?もうはっきり言って覚えてませんが以前よりそのような女性なのに一国の主であったとかそんな伝承めいたことを聞いたかと思います。でもどんな方なのか知り得なかった、というのも日本史にての興味というのは天下泰平への道でありそのわきにそれた形の人物は相当なことでもない限り知り得ることは無いのです。だからみんな徳川家康は聞いたことがあっても井伊直虎なんて知らない、井伊と言えば幕末の井伊直弼ばかりが出てきてしまうし昨今ではひこにゃんで有名になった井伊直政のほうが断然有名なわけです。そんな中での直虎なのですが大河ドラマが終了した今では少しは知名度が上昇したことでしょう。でもまあ世の中というのは残酷で井伊直虎の人生を描いた大河ドラマ、視聴率は振るわなかった、でも女城主直虎は結構傑作の部類に入る大河ドラマだったと思えます。

 

まあ井伊と言えば直弼や直政なのでありこの二人は家系図ではどんな感なのかをちょっと見てみましょう。

 

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まあこの井伊の家系図なのですが直政を新生井伊の初代とすると後の13代当主が直弼なのです。直政の時代ですが徳川の家臣になったのが1575年で名を万千代から直政に改めたのが1582年でして元服がかなり遅かったのです。そこから直弼なのですが桜田門外の変は1860年の出来事でして直政の元服から278年近く後の出来事だったのです。この家系図に直虎がいますが直虎は旧井伊家の末代にあたる人物となってしまいました。まあ井伊家という家系はどんな家系なのか?そもそも旧井伊とは?そしてドラマにて直政以降の新生井伊はどんな家系であったのかを追ってみていきます。

 

<大河ドラマ以前の井伊家>

 

井伊家がこの世に出たのはかなり昔でして南北朝時代よりも前のこと、藤原北家の良門流という一派に属していたのだとか、つまり天皇の血筋となんらかの関係があったと思えます。初代の井伊共保は1010年の生まれでどうやら井伊にて捨てられていた子供だったとのこと、その捨て子より井伊家が始まりました。もともと藤原共保という名前でしたが1032年にとある方の家督を継いで井伊谷にて井伊を名乗るようになったようです。平安時代の1032年より井伊家は始まりまして藤原という名門の一派としてこの世に産声を上げました。そして少しして井伊家の『直』の字は井伊惟直という方より始まったみたいです。この一歩より後の直虎、直政、直弼とつながっていくのです。

 

まあ悲しいことにドラマの中で井伊家は井伊谷の弱小国家なので今川家に悩まされ続けるという苦悩を背負わされるのです。ドラマの中でも幼いおとわが井伊家より所領安堵を願うために井伊家の参じてその許しを請うため必死になっていたシーンは痛々しいです。この井伊家はなぜ今川の支配下にあったのか?それはかつての井伊家当主井伊行直の時代より始まったみたいです。井伊行直が活躍したのは南北朝時代、この時代に朝廷側についてその地盤を固めてきましたが北朝側の今川範国との戦いが始まりました。一進一退を繰り返したその果てに井伊家は北朝に敗れたのが1340年のことでした。このような経緯を経て今川義元が今川家の当主となり井伊家と一進一退を繰り返し駿河守護から遠江の守護職を得たあたりから井伊家は今川の支配下となってしまいました。この微妙な関係の最中より大河ドラマの幕が開けたのです。

 

<大河ドラマにて>

 

大河ドラマ女城主直虎の時代の井伊は滅亡の危機に瀕する苦難の時代でした。この時代の井伊は群雄割拠する戦国時代にてほんの一握りほどの領土を所持するに過ぎない弱小国でした。今川家は井伊谷を我が物にせんと策略をめぐらしますが今川義元は桶狭間の戦いで織田信長に敗れます。井伊にとっては朗報的ですが桶狭間は井伊にとっても大打撃であり直虎の父である井伊直盛は討ち死に、桶狭間より後にその跡継ぎの直親も今川氏真の謀略により討たれます。二代に渡る討ち死には井伊にとってはお家断絶の危機、この危機に立ち上がったのが井伊直虎でした。直虎は今川家に果敢に抵抗して井伊谷を隆盛させようと奮戦しました。しかし、結果として井伊はお家断絶となりました。直虎は可能な限りぎりぎりともいえる奮戦をするも台頭する武田の勢力にはとてもかなわなかったようです。そんな武田家統領である武田信玄も病で死去しました。

 

長篠の合戦にて武田勝頼が敗退、これにより織田や徳川が勢力を増すこととなりました。井伊は新興勢力となりつつある徳川に取り入ることにしました。既にお家断絶の憂き目にあっていた井伊家ですが井伊は井伊直政が徳川に取り入る形で復興を遂げます。とはいってもそれは名ばかりなのではと思えましたが井伊直政は徳川家で目覚ましい武功をたて徳川四天王と呼ばれるほどの存在となっていきます。目覚ましい武功をたてる走り、武田の赤備えの軍団を任され侍大将となった直政という形で大河ドラマは終了しました。直虎が繋いできた直政という命が今まさに花開こうとしていた、直虎の魂が直政とともに戦場を駆ける、井伊の魂は直虎とともにあるという勇ましきものとなったのです。

 

<井伊直政の活躍による井伊家再興>

 

直虎亡き後も直政の戦いは続きます。直政は徳川家にて数々の武功を立てました。直政の活躍を年表にすると次のような感じになります。

 

1575年 徳川家に小姓として取り立てられる。名前を虎松から万千代に改める。

 

1581年 第二次高天神城の戦いで武功を立てる。

 

1582年 元服、名前を万千代から直政と改める。事実上の井伊家再興となる。

 

同年 本能寺の変後、家康の伊賀越えに付き従う。

 

同年 天正壬午の乱にて北条氏と和睦交渉の使者となり徳川に有利な形で和睦を達成、士大将に任ぜられる。

 

1583年 家康の養女、松平康親と結婚する。

 

1584年 小牧・長久手の戦いにて赤備えを率いて武功を挙げる。この戦いで『井伊の赤鬼』として恐れられる。(大河ドラマ おんな城主直虎の最後のシーンは小牧・長久手の戦いなのかもしれないです。)

 

同年 修理大夫に任官されるが辞退したとも伝わる。

 

1585年 上田合戦にて真田攻め撤退を指揮するため上田に派遣される。

 

1586年 豊臣秀吉に見込まれ従五位下に叙位される。秀吉より豊臣姓を賜る。

 

1588年 徳川家筆頭家老酒井忠次以下諸重臣の中で唯一直政のみが昇殿を許される侍従に任官、これにより徳川家中で最も高い格式の重臣へと出世を遂げる。『井従侍藤原直政』という署名を送られる。

 

1590年 小田原征伐にて唯一夜襲をかけて小田原城内に攻め込んだ武将としてその知名度を上げる。

 

1591年 九戸政実の乱にて先鋒を務める。

 

こののち北条に代わり家康が江戸入り、直政は更なる加増を受け上野国箕輪に12万石で封ぜられる。

 

1598年 箕輪城を廃して南の和田城を高崎城と改称し直政の居城とする。

 

同年 豊臣秀吉死去に伴い豊臣方の家臣を徳川方に引き入れる。黒田官兵衛、長政と盟約を結ぶなどをはじめとして数多くの武将を引き入れた。

 

1600年 関ケ原の戦いにて本田忠勝とともに東軍軍艦に任命、東軍指揮の中心的存在になる。

 

全国の諸大名を東軍に引き入れるなどの工作を行い島津家の島津豊久を討ち取るなどし島津義弘を討ち取らんとしたときに銃弾があたり落馬するほどの大けがを負う。

 

戦後、怪我をおして和平交渉にあたり毛利家や島津家、長宗我部元親などと通じる。また直政は真田昌幸、信繁の助命にも尽力している。後に石田三成の旧領である近江国佐和山(現在の滋賀県彦根市)に18万石を与えられ従四位下に任官されるという出世を遂げる。

 

1602年 井伊直政死去 死因は関ケ原の戦いで受けた銃弾が原因の破傷風によるものとされる。およそ41年という短い生涯を閉じた。

 

まあこんな感じですがこれを見る限り直政はかなりの大出世を遂げた人物です。最終的に従四位下の官位やらでもしかしたら徳川随一の武将となったのかもしれませんね。直政は数々の武功を挙げ太平の世を迎えたのに無理がたたったか関ケ原以降に生涯を閉じてしまったのはとても残念、いまわの際に直虎が迎えに来たかもしれませんね。井伊家再興を直虎に代わり成して死去してしまうなんて残念な話です。

 

直政の歴史においてこれまた見逃せないのが黒田家や真田家とのつながりも見逃せません。英雄は惹かれあうのかもしれないなんてことを連想しますが直政の生涯を描いた女城主直虎の続編はやろうと思えばできそうです。本年は西郷(せご)どんが始まりますのでまたまたそちらを見てゆこうと思います。戦国時代から幕末へワープしてのお話ですね。

 

 


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